「住職、今度お寺でマルシェを開こうと思うんです。人がたくさん来れば、お寺も活気づきますよね」
僧侶たちから、そんな意気込みを聞く機会が増えました。 彼らの目はキラキラと輝き、どうすればもっと人を集められるか、どうすればバズるかというノウハウに溢れています。
そんな彼らに、私はあえて冷や水を浴びせるような問いを投げかけます。
「で、その人たちを集めて、結局お寺として『何』をしたいの?」
この問いに、言葉を詰まらせる方は少なくありません。 「えっ、人が集まれば、自然とお寺に親しみを持ってもらえるじゃないですか…」
ここに、現代のお寺が陥っている最大の罠があります。 「目的」と「目標」の完全な逆転現象です。
今回は、一生懸命お寺を盛り上げようと頑張っている方へ。 お寺の存在価値を自ら下げてしまわないためのお話をしたいと思います。
目的は「北極星」、目標は「飛び石」である
まず、言葉の定義から始めましょう。ここを曖昧にしているから、迷子になるのです。
目的とは、私たちがどこへ向かっているのかを示す「北極星(大きなベクトル)」です。 目標とは、そこに辿り着くために設定する、一つ一つの「飛び石(通過点)」です。
私たち僧侶にとっての北極星(目的)とは何でしょうか。 それは「仏法を伝え、人々の悲しみや苦しみに寄り添い、心を癒やすこと」のはずです。
では、「月に100人集める」「本堂の屋根を修繕する」「SNSのフォロワーを増やす」とは何でしょうか。 これらはすべて、目的を果たすための「目標」に過ぎません。
飛び石(目標)は、北極星(目的)に向かって一直線に並んでいなければ意味がありません。 しかし今、多くの若い住職が、北極星を見失ったまま、ただ目の前の大きな飛び石に乗ること自体に熱狂してしまっているのです。
「人を集める」が目的になったお寺の末路
イベントをして、カフェを開いて、たくさんの人を集める。 それが目的になってしまったお寺はどうなるか。
結果として、お寺の存在価値は高まるどころか、むしろ下がります。 なぜなら、世間から「ちょっと変わった、無料(あるいは格安)のイベント会場」として消費されて終わるからです。
人が100人集まったとしましょう。 彼らはコーヒーを飲み、写真を撮り、「楽しかったね」と帰っていきます。 そこに「仏法」はありましたか? 人の「悲しみ」を癒やしましたか?
もし、ただ楽しい時間を提供するだけなら、お寺である必要はありません。 プロのイベント会社や、街のカフェのほうがよっぽど質の高いサービスを提供できます。
人を集めること(目標)は達成したけれど、お寺本来の役割(目的)を果たしていない。 これでは、忙しく走り回って疲弊するだけで、肝心の「信仰」や「お寺への信頼」は一ミリも育ちません。 逆効果なのです。
「お寺を維持する」ことも目的ではない
もう一つ、真面目な住職ほど陥りやすい罠があります。 それは「お寺を維持すること」を目的にしてしまうことです。
「何百年と続くこの本堂を、私の代で潰すわけにはいかない」
「なんとか檀家さんから寄付を集めて、屋根を直さなければ」
その責任感は立派です。 しかし、忘れないでください。「本堂」も「お寺という組織」も、仏法を伝えるための「道具(ビークル)」に過ぎません。
もし、お寺の建物を維持するためだけに、檀家さんに無理な負担を強い、住職自身も借金に追われて心がすさんでしまったら。 それは本末転倒です。 道具を守るために、仏教が本来救うべき人々の心を苦しめているのです。
維持することは目標(前提条件)であって、目的ではありません。 「何のためにこの空間を残すのか」という目的が抜け落ちたお寺は、ただの「金食い虫の巨大な木造建築」になり下がります。
すべての目標を「なぜ?」で問い直す
では、どうすれば目的と目標の逆転を防げるのでしょうか。 それは、自分たちがやろうとしている施策(目標)に対して、何度も「なぜ?」と問いかけることです。
SNSを始める。なぜ? お寺を知ってもらうため。なぜ? 法話会に来てもらうため。なぜ? 仏法を聞いて、日々の苦しみを和らげてもらうため。
この最後の「苦しみを和らげてもらうため」という大きな目的に繋がらないのであれば、そのSNS発信はただの自己承認欲求の道具です。やめてしまったほうがマシです。
本堂を修繕する。なぜ? 雨漏りを防ぐため。なぜ? 参拝者が安全に、静かな環境で手を合わせられるようにするため。なぜ? そこで仏様と対話し、心の平穏を取り戻してもらうため。
このベクトルが一本の線で繋がっている時、初めて「屋根を直す」という目標が、尊い宗教行為に昇華されるのです。
結び:私たちは「どこへ向かっているのか」
何か新しいことを始めようとする時、ワクワクする気持ちは痛いほどわかります。 行動力があるのは素晴らしいことです。
しかし、足元(目標)ばかりを見て走る前に、一度立ち止まって、空(目的)を見上げてください。
私たちの存在価値は、「何人集めたか」という数字の中にはありません。 たった一人でもいい。絶望の淵にいる人がお寺を訪れ、仏法に触れ、少しだけ前を向いて帰っていく。 そのために、私たちは衣を着て、この場所に座っているのです。
目的を見失わないでください。 大きなベクトルさえ間違えなければ、たとえ目標の達成に失敗したとしても、あなたのお寺は決して価値を失うことはありません。
どうか、本質を見誤らず、誠実に歩みを進めてください。 30年先、あなたがご自身の人生を振り返った時、その歩みが確かな道であったと思えるように。
