※誤解のないようにお伝えしておきますが、ここで言う「中道」とは、特定の教団や政党が掲げるスローガンや政治用語のことではありません。お釈迦様ご自身が過酷な修行の末に見つけ出した、仏教の最も根本的なフィロソフィーのことです。
「もっとちゃんとしなさい。適当な仕事をしていてはダメですよ」
私たちが日常で「適当」という言葉を使う時、たいていは「いい加減」「手を抜いている」といった悪い意味合いで使われます。皆さんも、誰かに「適当でいいよ」と言われて、どこまで力を抜いていいのか迷った経験があるのではないでしょうか。
しかし、辞書を引いてみると、「適当」の本来の意味は「ある条件や目的、要求などにうまく当てはまること。ふさわしいこと」とあります。 つまり、「適度に当たっている」という、極めて絶妙で素晴らしい状態を指す言葉なのです。
私は長年、僧侶として多くの方の悩みと向き合ってきましたが、現代人は真面目すぎるがゆえに、この「適当」がとても苦手になっていると感じます。
今回は、白黒つけないと気が済まない現代社会において、私が声を大にして提唱したい「適当のすすめ」と、お釈迦様が残された最高のライフハックについてお話しします。
0か100かの「極端」は人を苦しめる
現代は、白か黒か、正義か悪か、成功か失敗か、0か100かで物事を判断しがちな世の中です。
「こうあるべきだ」という理想(100点)を高く掲げ、そこに向かって一直線に努力することは素晴らしいことです。しかし、人間は機械ではありません。常に100点を目指して走り続けていれば、いつか必ず心か体がポキリと折れてしまいます。
逆に、「どうせ自分には無理だ」と完全に投げやりになってしまう(0点)のも、虚しさが残るだけで決して幸せな状態とは言えません。
頑張りすぎても苦しい。怠惰すぎても苦しい。 どちらかの「極端」に偏ることは、巡り巡って自分の首を絞めることになります。ここで必要になってくるのが、本来の意味での「適当(ちょうどいい塩梅)」を見つけるという作業なのです。
お釈迦様が発見した「中道」というバランス
実はこの「適当であれ」ということは、今から2500年も前に、仏教の開祖であるお釈迦様(ブッダ)がすでに説かれています。 それを仏教の言葉で「中道(ちゅうどう)」と呼びます。
王子の身分として生まれ、あらゆる贅沢(極端な快楽)を味わい尽くしたお釈迦様は、「ここには本当の幸せはない」と悟り、出家します。 その後、今度は骨と皮だけになるまで自分を痛めつける、壮絶な苦行(極端な苦痛)を6年間も続けました。しかし、どれだけ自分を追い込んでも、真の悟りを開くことはできませんでした。
「快楽に溺れてもダメ。自分を痛めつけすぎてもダメだ」
そう気づいたお釈迦様は、村の娘が差し出した乳粥(ミルク粥)を飲んで体力を回復させ、静かに菩提樹の下で瞑想に入り、ついに悟りを開かれます。 「どちらの極端にも偏らない、ちょうどいい真ん中の道」。それが「中道」の発見でした。
心の糸は、適当に張るから良い音が鳴る
お釈迦様は、この中道の教えを「琴の糸」に例えてお弟子さんに語っています。
「琴の糸は、きつく張りすぎると切れてしまう。逆に、緩めすぎると音が出ない。きつすぎず、緩すぎず、ちょうど良い(適当な)張力に調整された時に初めて、美しい音楽を奏でることができるのだよ」と。
これは、私たちの心や人生にもそのまま当てはまります。
仕事も、人間関係も、子育ても、張り詰めすぎてはいけません。「絶対にこうしなければ」という執着を手放し、時には「まあ、いっか」「今日はこれくらいでよしとしよう」と糸を緩めること。 その「適当さ(中道)」を持てる人こそが、変化の激しいこの世界を、しなやかに、そして健やかに生き抜くことができるのです。
結び:胸を張って「適当」に生きよう
真面目で頑張り屋な人ほど、「適当」になることに罪悪感を覚えるかもしれません。 しかし、お釈迦様が身をもって証明されたように、人生の最高のパフォーマンスは「極限の努力」の中ではなく、「適当なリラックス」の中にこそ宿ります。
もし今、あなたが「生きづらい」「疲れ果てた」と感じているなら、それは心の糸をきつく張りすぎているサインです。
どうか、勇気を出して糸を緩めてください。 両極端を離れ、あなたにとって一番心地よい「適度な当たり(適当)」を探してみてください。
胸を張って、適当に生きましょう。 そのおおらかでしなやかなバランス感覚こそが、あなた自身の人生に、最も美しい音色を響かせてくれるはずです。
