「もっと気軽にお寺に足を運んでほしい」
「まずは本堂に座ってもらうことが大事だ」
お寺離れが叫ばれる昨今、多くの僧侶がそう考え、様々な工夫を凝らして人を集めようと努力しています。たしかに、お寺との接点を作ることは大切です。
しかし、僧侶歴30年の私は、現場の空気の変化から一つの確信を持っています。 それは、「現代は、ただお寺に来てもらっただけでは、仏法はなかなか伝わらない」という厳しい現実です。
ひと昔前と現代とでは、人々がお寺に座る時の「心の構え」が根本的に変わってしまいました。 今回は、現代の人々に仏法を届けるために、私たち宗教者が立たなければならない「本当のスタートライン」についてお話しします。
かつて当たり前だった「仏法のシャワー」
昔であれば、人々が仏法に出会うきっかけは日常の中にたくさん転がっていました。
「お姑さんに言われたから」
「ご近所付き合いの延長で」
「昔から、この日はお寺に行くものだから」
そこには、半ば義務感のようなものがありました。最初は教えの内容など分からなくても、「とりあえず行かなければならない」環境があったのです。
そうして本堂に座り、お坊さんの法話を聞く。 難しい仏教用語が飛び交い、内容はよく分からなくても、お香の匂いに包まれてありがたいお話を聞いていると、なんだか心が洗われたような気になります。
私はこれを「仏法のシャワー」と呼んでいます。 ただ座って、シャワーのように仏教の言葉を浴びる。それだけで「さぞかしご利益のある話にちがいない」と気持ちよくなり、満足して帰っていく。回を重ねるうちに、自然と理解を深めていく方もいらっしゃいました。
かつては、この「とりあえず仏法のシャワーを浴びる」という行動そのものが、仏法と出会う尊いご縁(仏縁)として機能していたのです。
現代人が求めるのは「シャワーの効能書き」
しかし、現代は違います。 義理や付き合いでお寺に行く習慣は薄れ、誰も「とりあえず」では本堂に座ってくれません。
さらに決定的な違いは、情報に溢れた現代の人々は、自分が納得しないものには絶対に時間を使わないということです。
彼らはお寺に来て、よく分からない仏教用語のシャワーを突然浴びせられても、「ありがたい」とは思いません。 現代の方が知りたいのは、「このシャワーにはどんな成分が含まれていて、私にどんな効能(メリット)があるのか?」ということです。
「この話を聞くことは、私の今の生活にどんな意味があるのか」
「私の抱えているこの悩みを、どう解決してくれるのか」
その「効能」に納得してからでなければ、決してシャワーの蛇口をひねろうとはしないのです。
リアルな生活とリンクさせる「通訳」であれ
ということは、イベントやカフェでお寺に100人を集め、「さあ、来てくれたから仏教の話をしましょう」と伝統的な法話を始めても、誰の心にも届かないということです。 効能書きのないシャワーを、現代人は華麗にスルーして帰っていきます。
では、どうすればいいのか。 私たち僧侶は、まず「彼らの現実の人生において、役に立つ話」から始めなければなりません。
仕事の人間関係のストレス、子育てのイライラ、老いや病気への不安。 そうした生々しい「日常の現実」と、2500年前から伝わる「仏法」をリンクさせること。小難しい仏教用語を現代の言葉に翻訳し、「この教えは、あなたの明日の生活をこう楽にしてくれますよ」と提示することです。
それができて初めて、私たちは「仏法を伝えるためのスタートライン(ステージ)」に立つことができます。
結び:ステージに乗ってから、深い海へ誘う
「人生に役立つノウハウばかり語っていては、仏教の深い真理から遠ざかるのではないか」と懸念される方もいるかもしれません。
しかし、順序が逆なのです。 まずは現代の言葉で、日常の苦しみに寄り添うヒントを手渡す。そうして「お寺の話は、私の人生に関係があるんだ」と実感し、自らステージに乗ってくれた方にこそ、初めて「執着を手放す」といった、より深く、より本質的な仏法の世界をお話しすることができるのです。
ただ集めるだけではなく、どうすれば彼らの日常と仏法を繋ぐことができるか。 その「通訳」としての努力こそが、現代の僧侶に求められている最も重要な仕事なのだと思います。
