「自分の言っていることのほうが絶対に正しい」
「なぜあの人は、こんな簡単な道理がわからないのだろう」
私たちは日々の生活の中で、つい自分の持つ「正義」や「正しさ」を、決して揺らぐことのない普遍的なものだと信じ込んでしまいます。意見が対立した時、相手を論破して自分の正しさを証明したくなるのも、人間ならではの性(さが)かもしれません。
しかし、一人の人間として生きてきて痛感することがあります。 それは、私たちが信じて疑わない「正しさ」というものは、実は「前提」が変わればコロコロと姿を変えてしまう、とても脆くて曖昧なものだということです。
今回は、絶対に変わらない正義など存在しないこの世界で、私たちが他者と助け合って生きていくことの「本当の難しさと尊さ」について、仏教の視点からお話ししたいと思います。
「正しさ」は、立つ位置(前提)で180度変わる
例えば、数十年前の日本を思い返してみてください。 職場では「24時間戦えますか」と身を粉にして働くことが美徳(正義)とされ、子育てや教育の現場でも、厳しく体罰を与えることが「愛の鞭(正しい指導)」として容認されていました。
しかし、現代ではどうでしょう。過労は心身を壊す悪であり、体罰は明確な虐待(犯罪)です。 ほんの数十年の時代の変化(前提の変化)によって、社会における「正しさ」は180度ひっくり返ってしまいました。
仏教には「一水四見(いっすいしけん)」という言葉があります。 同じ「水」を見ても、私たち人間にとっては「飲み物」ですが、魚にとっては「住処」であり、天界の神々にとっては「美しい瑠璃の床」に見え、苦しむ餓鬼(がき)にとっては「燃え盛る炎」に見える、という教えです。
相手がどのような前提(立場、時代、環境、見えている世界)に立っているかによって、物事の価値や正義は全く違うものになります。私が握りしめている正しさは、相手の前提においては「間違い」かもしれないのです。
私もあなたも「変わり続ける存在」である
さらに厄介なことに、前提が変わるのは外側の環境だけではありません。 私たち自身の心や体も、一瞬たりとも同じ状態にとどまることなく変化し続けています。これを仏教では「諸行無常(しょぎょうむじょう)」と呼びます。
昨日の私と、今日の私は違います。 若い頃に許せなかったことが、歳を重ねてすんなり受け入れられるようになった経験は誰にでもあるはずです。細胞も、感情も、価値観も、私たちは常にアップデートされ、変わり続けているのです。
「正しさ」の基準がコロコロと変わる世界で、変わり続ける「私」と、同じように変わり続ける「あなた」が向き合う。 二つの異なるベクトルが常に動き続けているのですから、意見が食い違ったり、理解し合えなかったりするのは、ある意味で「当たり前」のことなのです。
難しいからこそ、助け合いは美しい
「自分も他人も変わり続けるのだから、分かり合うのは無理だ」と諦めてしまうのは簡単です。 しかし、仏教が本当に伝えたいのはその先にある教えです。
自分も相手も不完全で、正しさも曖昧で、変化し続ける危うい存在である。 だからこそ、私たちは互いの「違い」を許容し、支え合い、助け合わなければ生きていけないのだ、ということです。
「自分の正しさが絶対ではない」と知ることは、決して負けではありません。それは相手の言い分に耳を傾け、「なるほど、あなたの立っている場所からは、そう見えるのですね」と受け入れるための「心の余白」を作ることです。その余白から、本当の意味での慈悲(思いやり)が生まれます。
変わり続ける私たちが、変わり続ける誰かと歩幅を合わせ、手を取り合って生きていく。 それは奇跡のように難しく、面倒なことかもしれません。しかし、その不器用な歩み寄りの中にこそ、人間としての本当の温かさと、人生の尊さがあるのだと私は信じています。
結び:握りしめた「正しさ」を、少しだけ手放してみる
もし今、あなたが誰かとの関係で「自分が正しいのに」と苦しんでいるなら。 ほんの少しだけ、その握りしめた「正義」をテーブルの脇に置いてみてください。
そして、「私も相手も、前提次第で変わってしまう曖昧な存在なんだ」と思い出してみてください。 完璧ではない私たちが、不完全なまま互いの不足を補い合い、この変わりゆく世界を共に生き抜いていく。そのしなやかな強さこそが、お釈迦様が私たちに伝えたかった「中道(ちゅうどう)」の歩み方なのかもしれません。
