私たちが感じる「平等の違和感」
「管理職の男女比を50%にする」
「運動会の徒競走では順位をつけず、みんなで手をつないでゴールする」
近年、このような「平等」を推進するニュースや取り組みをよく目にするようになりました。誰もが傷つかない社会を目指すその理念は、とても素晴らしいものです。
しかし一方で、すべてを「一律の数字や結果」に揃えようとする風潮に対し、どこか息苦しさやモヤモヤとした違和感を抱いている方も少なくないのではないでしょうか。
私は長年、僧侶として多くの方の人生に向き合ってきましたが、ここで一つの問いを投げかけたいと思います。
制度で無理やり50%にすることは、本当にその人の「能力」や「個性」を見ていることになるのでしょうか?それとも、政治や会社で長年続いた「見えない壁」を壊すためには、これくらい強力な劇薬が必要なのでしょうか。
今回は、生まれも育ちもバラバラな私たちが、本当の意味で「平等」になるためのヒントを、古くて新しい「仏教」の視点から紐解いてみたいと思います。
仏教が教える「差別(しゃべつ)」と「平等」
現代において「差別」という言葉は、不当な扱いを意味するネガティブな言葉として使われます。しかし、仏教語としての「差別(しゃべつ)」は少し意味が違います。
仏教における差別とは、「個々の違いをありのままに、正しく認識する智慧」のことです。 雪は白く、カラスは黒い。松は高くそびえ、竹はしなやかに曲がる。それぞれが全く違う性質を持っているという事実を、まずはっきりと認めることです。
その上で、仏教は「平等(びょうどう)」を説きます。 見た目や能力、役割にどれほどの「差別(違い)」があろうとも、すべての命の根底には「仏性(ぶっしょう)」という、等しく尊い仏の種が宿っている。命の重さや人間の尊厳においては、完全に平等である、という教えです。
つまり仏教では、個性を消して一律に揃えること(結果の平等)を良しとはしません。違いを認めた上で、その根底にある尊厳を敬い合うことこそが、本当の平等なのです。
「数の平等」は、誰を幸せにするのか?
先ほどの「役職比率50%」という問いに戻りましょう。
過去の不当な壁を壊すための「劇薬」として、数値目標を掲げるフェーズが社会には必要なのかもしれません。しかし、制度の数字を合わせること(形)ばかりが目的化してしまうと、新たな苦しみを生む危険性があります。
もし、「女性管理職の枠が空いているから」という理由だけで、本人の適性や望まないタイミングで役職に就かせたとしたら、それはその人から「本来の自分らしく働く喜び」を奪い、苦しみを与えてしまうことになりかねません。 形式的な一律化を超えて、一人ひとりが「本来の自分」でいられる環境をどう整えるか。それが、私たちが劇薬の次に目指すべきステップなのだと思います。
「競争させない」は、優しさか、それとも残酷か
また、教育現場などで見られる「競争を避ける」という風潮についても考えてみましょう。 勝敗によって優劣が決まり、傷つく子を出さないための配慮は理解できます。しかし、仏教の視点から見ると、「結果の平等」を押し付けることは、かえって個人の可能性を奪うパラドックス(逆説)を孕んでいます。
仏教では「精進(しょうじん)」を強く勧めます。自らの心身を磨き、高みを目指して努力するエネルギーは、人間にとって非常に美しく尊いものです。
ここで大切なのは、「争い」と「競い」の決定的な違いを知ることです。 「争い」とは、相手を引きずり下ろして自分が上に立とうとする、我欲や怒りのエネルギーです。 一方、「競い」とは、相手を良きライバルとし、互いに切磋琢磨しながら高め合うことです。仏教ではこうした存在を「善知識(ぜんちしき=自分を正しい道へ導いてくれる良き友)」と呼び、深く感謝します。
結果を平準化して競争をなくすことは、この「善知識と共に自分を高める」という豊かな経験を奪ってしまうことになりかねないのです。
松は松として、竹は竹として
私たちが勝敗や優劣で苦しむのは、競争そのものが悪いからではありません。社会が「年収」「役職」「テストの点数」といった「単一の物差し」しか用意していないからです。
足が速い子がいれば、絵を描くのが好きな子もいる。数字を追うのが得意な人がいれば、職場の空気を和ませるのが得意な人もいる。 松は松の美しさがあり、竹には竹の美しさがあるように、多次元の物差しを持てば、誰もがどこかで必ず輝くことができます。
仏教には「自他一如(じたいちにょ)」という考え方があります。自分と他者は深い縁で繋がったひとつの命であり、他者の輝きは自分の喜びでもある、という境地です。
勝敗や役割の違いと「人間の尊厳」を切り離すこと。それができれば、私たちは相手の才能に嫉妬することなく、心から拍手を送れるようになるはずです。
今日から始める「本当の平等」への一歩
私たちはつい、自分と誰かを比較し、「どうして同じになれないのか」「どうして不公平なのか」と執着してしまいます。
しかし、社会の制度を完璧に設計して、全員の条件を完全に同じにすることは不可能です。 だからこそ、比較という執着を少しだけ手放し、今ここにある「ご縁」を大切に生きてみませんか。
違ったままでいいのです。能力も、役割も、歩むスピードも違ったままで、誰もが尊厳を持って共存できる世界。 それは、国や社会といった大きな枠組みからではなく、あなたが目の前にいるたった一人と「心」で向き合い、その人の仏性(尊さ)を信じることから始まります。
「数」を合わせるのではなく、「心」を合わせる。 それが、お釈迦様が私たちに残してくれた、一番温かくて確かな「平等の作法」なのです。
